「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」について考える

自分の命

前書き

 マタイ16章26節の「自分の命を損したら」という御言葉の、「自分の命」とは何を意味するか考えてみたい。

聖書の御言葉

それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい

自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう

たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。

引用:マタイ16章24~26節

「自分の命」を損したらとはどういう意味か

 ここで言う(26節)「自分の命」とは肉体の命の事を言うのではない。これは聖書で言う「永遠の命」の事を言っている。
なぜイエス様が「永遠の命」と言われなかったかは分からないが、他にここに当てはまる適当な言葉が見つからない。

又「永遠の命」は「どんな代価を払って、その命を買いもどすことができない」ほどの価値があるとの事。

自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい

自分の十字架とは何であろうか。
(例)

  • その1,イエス様を人の前で知らないと言わない。

    だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。

    引用:マタイ10章32~33節

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