前書き
クリスチャンは、死後天国に行くと教えられる。であるなら、極論として救われたらすぐ死んだほうが良いのではという考え(疑問)が出るかも知れない。
ここで「生きることはキリストであり、死ぬことは益である」について考えてみる。まさしく殉教した人はこのように(死んだら天国に行く)考えて死んで行ったにちがいない。
考えられる事
- まず考えられるのは人の生殺与奪の権は神様が握っておられるという事である、それに逆らって自分の生死を考えるのは適切ではない。
二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。
引用:聖書マタイ10章29節
- パウロの考え
わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。 わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。
引用:聖書ピリピ人への手紙1章21~24節
つまりパウロは、自分が長生きする事は人々を教え導く(キリストの)為に必要だと言っているのである。
又、パウロが「死ぬことは益である」と言い切れる所がすごいことと思う。ノンクリスチャンで、こう言える人は少ないと思う。
まとめ
クリスチャンは救われたら、早く死んで天国に行きたいという思いも理解できるが、「人の生殺与奪の権は神様が握っておられる」故、そこは神様の導きに従うべきである。あの偉大な予言者エリヤでさえ自分の死を神様に願った事があった。
自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。引用:Ⅰ列王記19章4節
その後、神様はエリアに使命(後継者エリシャの任命、等)を与えられた。
従ってパウロのごとく「生きることはキリストであり、死ぬことは益である」と考え、生殺与奪の権を神様にゆだねて生きるべきである。
参考にして頂いた外部記事
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