前書き
クリスチャンになると安息日を守りなさと言われる、しかしその真の意味(本質)を自分自身理解してない。従って自分自身いつまでたっても不安な行動をしてしまう、そこでとりあえず学んでみる事にしました。
聖書から教えられる事
安息日を覚えて、これを聖とせよ。
六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。
引用:出エジプト 20章8~11節
このケ所から教えられる事
- 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、
その時あなたは主によって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」。これは主の口から語られたものである。
引用:イザヤ 58章13~14節
このケ所から教えられる事
- 安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさない。
主はわたしにこう言われた、「行って、ユダの王たちの出入りするベニヤミンの門、およびエルサレムのすべての門に立って、
言いなさい、『これらの門からはいるユダの王たち、およびユダのすべての民とエルサレムに住むすべての者よ、主の言葉を聞きなさい。
主はこう言われる、命が惜しいならば気をつけるがよい。安息日に荷をたずさえ、またはそれを持ってエルサレムの門にはいってはならない。
また安息日にあなたがたの家から荷を運び出してはならない。なんのわざをもしてはならない。わたしがあなたがたの先祖に命じたように安息日を聖別して守りなさい。
しかし彼らは従わず耳を傾けず、聞くことも、戒めをうけることをも強情に拒んだ。
引用:聖書 エレミヤ 17章19~23節
このケ所から教えられる事
- 安息日にあなたがたの家から荷を運び出してはならない。なんのわざをもしてはならない。
わが安息日を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである。
しかしその子どもたちはわたしにそむき、わが定めに歩まず、人がこれを行うことによって、生きることのできるわたしのおきてを守り行わず、わが安息日を汚した。そこでわたしはわが憤りを彼らの上に注ぎ、荒野で彼らに対し、わが怒りを漏らそうと思った。
引用:聖書 エゼキエル20章20~21節
このケ所から教えられる事
- 安息日を汚してはいけない。
そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。
パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。
そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。
すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。
また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。
あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。
『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
人の子は安息日の主である」。
イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。
すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。
イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。
人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。
そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。
引用:聖書マタイ12章1~13節
このケ所から教えられる事
- わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない。
- 人の子は安息日の主である。
- 安息日に良いことをするのは、正しいことである。
また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」
引用:聖書 マルコ 2章27~28節
このケ所から教えられる事
- 安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
まとめ
私は旧約聖書と新約聖書で安息日に関する厳しさが違うように感じました。
律法学者パリサイ人とイエス様の違いを図解してみました、全く安息日を軽視する考えから守られると思います。







コメント